出身有名人と文芸作品

他に酪農と競走馬生産が盛んである。道の駅しちのへには町内産で東京優駿を優勝したヒカルメイジとコマツヒカリの像が建てられている。かつては南部縦貫鉄道線が町内を通っていたが、1997年の休止を経てを2002年に廃止された。六戸町は、青森県上北郡の東南部に位置した町である。一面が平坦な地形にて形成されており、目立った高山・湖沼はない。十和田湖を源流とする奥入瀬川が東西を流れ、流域には水田が広がる。積雪は多くなく年間を通して穏やかな気候である。



『氷都八戸』八戸市はスケート、アイスホッケーが盛んで実業団体やジュニアチーム、女子チーム、素人アイスホッケーを含め加盟登録数は60チームにものぼる。縄文時代の遺跡として是川遺跡や風張遺跡がある。風張遺跡からは縄文時代後期の米粒が出土している。また、是川遺跡からは数々の工芸品が出土している。その後南部氏が治めるようになるまで蝦夷の土地であり、律令制の及ばない地であった。1191年、甲斐国の南部氏が北東北一帯を源頼朝から賜ったとされているが、南部氏が実際に北東北に移ってきたのは南北朝時代である。1334年、南部氏分家の南部師行が根城を築き、根城南部氏の祖となった。根城南部氏は1627年、本家盛岡南部氏の命により遠野に居城を移した。1664年、南部重直が世継ぎを決めずに亡くなったため南部藩は御家断絶となる。幕府は南部藩10万石を八戸2万石と盛岡8万石に分け、八戸藩を南部直房に与え八戸城が築かれた。これが八戸藩の始まりである。八戸藩の領地と現在の八戸市の領域にはかなり違いがあり、久慈市あたりまでが八戸藩であった。



11世紀、岩手県北上平野の地域に俘囚長安倍氏 の勢力が確立すると、岩手県北から下北半島にかけての糠部地方で同族と見られる安倍富忠が有力となった。前九年の役において富忠は源頼義に使わされた金為時の誘いを受け朝廷方についた。安倍頼時は富忠に対する説得のため、わずかな手勢を引き連れて北上したが、富忠は頼良を攻め、矢傷を負った頼良はこれが元で死亡した。頼良を滅ぼした富忠だったが、朝廷や源頼義からの恩賞をうけた記録は無く、以後の糠部安倍氏に関する史料はない。北上平野の安倍氏はついに滅ぼされたが、貞任の子の高星丸が叔父の安倍則任とともに糠部を経て津軽に落ち伸び、津軽安東氏の祖となったとの伝承がある。青森県域が明確に中央政権に組み込まれるようになったのは延久北奥蝦夷合戦以後であると考えられている。正確な時期は不明だが、延久北奥蝦夷合戦から奥州藤原氏時代までのいずれかの時期に中央と同様の郡郷制が敷かれ、糠部郡、平賀郡、鼻和郡、田舎郡、西浜、外浜が設置されたのである。平安時代末期に奥州藤原氏を倒した源頼朝によって南部光行が糠部五郡を与えられたとの伝承があるが、史実かどうかは確認されていない。13世紀後半までに県域の全てが北条氏の得宗領となり、その地頭代として津軽安藤氏が下北半島や津軽半島、また蝦夷島の沿岸部を支配し、室町時代中期にかけて海上交易で栄えた。特に十三湖沿岸に築いた港には大きな町が形成され、現在でも中国や日本各地の陶磁器が出土している。ところが津軽安藤氏は鎌倉時代末期に内訌を起こして勢力を後退、また、南北朝時代の到来に当たっては北朝側につき、現在の岩手県南部から青森県東部の内陸部に勢力を持ち始めた南部氏は南朝方についたために同氏と対立、抗争した。情勢は南部氏有利に進み、安藤氏は蝦夷が島に駆逐された。南部氏は海上交易にはあまり力を入れず、安藤氏によって繁栄した各港は衰退した。一方、室町時代半ばには津軽地方では浪岡を中心に北畠氏が大きな勢力を誇った。



昭和20年から昭和27年までの7年間にわたって、日本史上初めて他国に占領され、最高司令官としてダグラス・マッカーサー元帥が着任した。マッカーサーは政治的には共和党右派で、本来反共主義的な傾向があったが、戦後直後の民主化は戦争直後の内閣として組閣された東久邇宮稔彦王内閣の予想を超える急進的な内容を持っていた。東久邇宮稔彦王内閣は戦時中の政治の継続を行なっただけで、民主化の進展に対応できず、総辞職した。米国の占領下で、幣原喜重郎内閣、次いで吉田茂内閣を通じ、農地改革・財閥解体・労働改革の三大経済改革と呼ばれる民主化措置が実施された。また婦人参政権が認められる一方で、治安維持法が撤廃されるとともに二次にわたる公職追放によって、社会の指導者層の20万人が軍国主義者として公職からの追放および被選挙権の停止なされた。吉田茂と首相の座を争う位置にいた鳩山一郎の場合、戦前の京大滝川事件時の文相であったことから、政治的活動が制約された。また、占領軍によって検閲が徹底され、連合国や朝鮮人について批判する報道は禁止された。また昭和21年には、極東国際軍事裁判が開廷され、戦争犯罪人とされた人は、戦争を計画し遂行した平和への罪、捕虜虐待など通例の戦争犯罪、虐殺など人道に対する罪としてそれぞれ処断された。連合国の日本占領政策は、事実上のアメリカ合衆国の単独で行われたが、直接統治方式による軍政は沖縄に施行されただけで、日本本土は間接統治方式によって日本政府を通じて占領政策が実施された。占領をめぐって、連合国内部にも意見の相違が表れ始め、ソ連のスターリンは、北海道の北半分のソ連占領を提案したが、アメリカのトルーマンが拒否し、本土は統一的なアメリカの勢力下に置かれた。一方、トルーマンは「共産主義」封じ込めの必要を強調する「トルーマン・ドクトリン」を発表してギリシャでの内戦に介入し、チャーチルが「鉄のカーテン」演説で予測した東西「冷戦」が本格化した。日本では、同じ敗戦国でも東西に分割されたドイツやオーストリア、ソ連の単独占領となったルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、チェコ、スロバキアなどとは異なった占領形態が採られた。昭和26年、マッカーサーは朝鮮戦争で原爆を使用せよなどの強硬な主張を行なったことなどからトルーマンと対立して解任され、後任にマシュー・リッジウェイ中将が着任した。日本では、表面的には沖縄、小笠原諸島を除く日本の本土では、日本にも主権があったが、全ての法令、文書は連合軍の厳しい事前検査と許可が必要であった。昭和21年に日本国憲法が公布され、昭和26年の日本国との平和条約で連合国との講和が完了して後に日本は事実上の主権を回復した。しかし米軍はほぼそのまま残留し、全土基地方式と呼ばれる方法によって日本各地に米軍基地が残された。



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